2005 年五月の日記

5/5 木、8:48 〈評する〉

音読みの漢字 1 字に〈する〉(サ変活用) を添えた〈評する〉〈律する〉等の動詞は、2 字以上の〈想像する〉〈立体化する〉等に比べて〈する〉の独立していると云う感じが弱い様です。

語に依って違いますが、例えば〈愛しない〉(サ変) と〈愛さない〉(五段) とでは後者のが好まれますし、〈感ずる〉(サ変) と〈感じる〉(上一段) とでも後者が多く遣われます。ちょっと他の例を見ると、〈食さない〉〈適さない〉,〈興じる〉〈重んじる〉等。前者は濁らない〈する〉に対して,後者は濁った〈ずる〉に対して発生するのでしょうか。「語に依って違う」と言うのは、〈律さない〉等は余り好まれないからです。[※ 音読み 1 字じゃないけど本々 [〈重くする〉→〈重んずる〉] だから仲間扱い]

更に、多分 1 字サ変に共通する特徴として、〈想像できる〉〈立体化できる〉が認められるのに対して〈評できる〉〈律できる〉等が認められない点が挙がります。

5/5 木、8:48 「SHINE GET!」は誤りか

マリサンで、シャインを獲得した時に画面に表示される「SHINE GET!」の文字。海外版では「SHINE!」に替えられてるそうで、和製英語だと考えられる事が多かろうと想います。

而し乍ら、斯う捉えてはどうでしょう。例えば、〈結果を表示する〉〈写真を撮影する〉は〈結果表示〉〈写真撮影〉等と表現できます。ならば、〈SHINE〉〈GET する〉と云う日本語の語彙を認めた上で〈SHINE を GET する〉を〈SHINE GET〉と表しても許されるのでないかと。

仮に〈SHINE〉〈GET する〉を日本語と認めるないとしても、「SHINE GET!」と表現する日本人の意識は上記の通りだと想います。

5/10 火、19:44 「天皇に対し責任を負う」

明治憲法は、「各国務大臣は天皇に対し個別に輔弼責任を負う」と規定しているそうです。私の教科書等は然う記述しています。[※〈ひつ〉:『補佐』]

私は此の表現を最初に見た時、何を意味しているのか全然解らざりました。仕方が無いので別の教材を探し、やっと『各国務大臣は個別に、天皇を補弼する責任を負う』と云う意味だと判明しました。

其れは〈対する〉で表現できる物じゃないでしょう。〈対する〉は字面通り『向かい合う』の意味です。『を』にはなりません。

5/10 火、19:44 「SHINE GET!」の補遺

「認めるない」とか変な誤りが在るのは措いといて。結局何なのか解り辛い文章になっちゃってるので説明を加えますと、[和製英語] でなく [日本語] と捉えるのが良いんじゃないか、と云う事です。

5/10 火、19:44 作者に取って作品は

1 月 17 日の日記でワケワカラン文章を書きましたが、あの文章は [作者は自分の作った物を作品を通して他人に伝えたい] と云う事を前提にしているので、全ての事象には当て嵌まりません。「論外」として、其の記述が全てを扱い切れている訳ではないと仄めかしてはいますけど。

作者が作品を創る理由としては、[自分の考える物を表現したい] [自分の考えを'他人に伝えたい (他人に楽しんで貰いたい)] [皆に楽しんで貰いたい] の 3 種類が存在すると思います。1 番目の場合は、別に他人に理解して欲しくもないのであの文章は当たりませんし,3 番目は自分の考えが無関係なので楽しめさえすれば問題有りません。

5/12 木、21:37 萌えの次元

大分あったかくなりました。桜も咲き始めました。

制服の上に何も羽織らないで自転車で学校に行けるのが楽。


昨晩の‘一言’で、一次元萌えにちょっと触れました。今度は、各表現形態を指す一般的な呼称に就いて、もう少し深めて考えてみようと思います。

主な萌え対象として、写真・実写の動画・絵・漫画・アニメ・文章・音声を取り上げます。フィギュア等の萌えは自分が把握してないので省略。

呼称・形態・認識
写真 実写動画 漫画 アニメ 文章 音声
呼称 3 次元 3 次元 2 次元 2 次元 2 次元 - -
形態 2 (長: 2) 3 (長: 2; 時: 1) 2 (長: 2)
  • 2 (長: 2)
  • 3 (長: 2; コマ: 1)
3 (長: 2; 時: 1) 1 (字: 1) 1 (時: 1)
認識
  • 3 (長: 3)
  • 4 (長: 3; 時: 1)
4 (長: 3; 時: 1)
  • 3 (長: 3)
  • 4 (長: 3; 時: 1)
4 (長: 3; 時: 1) 4 (長: 3; 時: 1) 不定 不定

各表現形態を指す一般的な呼称

其れ其れがどう呼び習わされているかを確認します。

表の 1 段目を見て下さい。一般的には上記の様な感じになってると思います。写真に萌えれば 3 次元萌え,絵に萌えれば 2 次元萌えです。

実際の表現形態

2 段目を見て下さい。「長: 3」は『長さ 3 次元』と云う意味です。別の表現をすると [L3]。

飽く迄も表現上の次元なので、平面である写真は 2 次元です。実写動画は [時間軸の有る平面] なので [長さ 2 次元 + 時間 1 次元] で 3 次元。文章は [字数 1 次元] で 1 次元。

漫画は基本的に 2 次元ですが、コマに順序が有る点に注目して、此れを軸と認めれば [長さ 2 次元 + コマ数 1 次元] で 3 次元とも言えます。此の場合、長さの軸は各コマに個別に存在します。

萌え手は脳内でどう認識するか

然て、此の 2 段を比べると、一致しない点が見られます。例えば写真は、一般的に 3 次元とされているのに反して表現形態が 2 次元です。ではなぜ 3 次元と呼ばれるかと言えば、脳内で 3 次元と認識されているからではないでしょうか。表現を受け取って解釈する人は、何も其の表現形態の儘で内容を認識している訳ではありません。平面の筈の写真も、其所に写っているのは 3 次元空間と認識されますよね。

と云う事で 3 段目――ですが、時間軸は次元を数える時に結構省かれますよね。時間の次元を省いて表を作り直してみましょう。

長さ次元だけで考えると
写真 実写動画 漫画 アニメ 文章 音声
呼称 3 次元 3 次元 2 次元 2 次元 2 次元 - -
形態 (長さ) 2 次元 2 次元 2 次元 2 次元 2 次元 - -
認識 (長さ) 3 次元 3 次元 3 次元 3 次元 3 次元 不定 不定

んー。結局横一列同じになってしまった。実写では呼称は認識の次元と一致し,実写でなければ形態の次元と一致か…。

あ、詰まり、其の表現種に於いて最も重要な点が呼称に取られてるんじゃないでしょうか。実写の映像は網膜に映る時には結局 2 次元の平面になってるので、写真だろうと生だろうと殆ど関係無い。だから [形態] でなく、思考に取って比較的重要な [認識] の次元が採用されて「3 次元」。対して絵・漫画・アニメの映像は実写の映像との違いが大きい為、其の形態が重視されて「2 次元」、と。

何だ、此んな事か。だらだら書いて損した気分。纏まんなくて時間掛かったし…。


此の後‘架空世界の真実性’‘時間は存在するか’と題して更に 2 本程書きたかったけど、時間が無いので断念。明日辺り書けるだろうか。

5/13 金、23:40 架空世界の真実性

うわー、何か昨日の日記、迷走してる。読み辛くてごめんなさい。

今日の 1 時限目は柔道の授業の 2 回目でした。去年の柔道は殆ど全部休んで過ごして終ったので、本々苦手なのを更に憶えてなくて苦労してます。足の小指の骨に罅が這入ったりしなければねぇ。


よっし、ガーッと書いちゃえ。

認識の上の現実世界

其も其も「現実世界」とは何でしょうか。考えてみると、一般には『自分の周囲に存在する』と自分の感覚で認識している世界の事だと思います。即ち、目で見,耳で聞き,肌で触っている――と我々が普段思っている世界、此れが現実世界。

此の事から明らかな事実は、人間は現実世界其の物を直接そっくり捉えているのではない、と云う事です。人が現実世界だと思っている物は実は、[自分自身が現実世界から知覚した物を脳内で組み立て,不足分を想像で補完して出来た世界の像] に過ぎないのです。

然う考えると、人間が現実世界を現実世界と認識する方法と謂うのは、極めて不確かです。詰まり、其の感覚が錯覚である可能性が在るのです。上に「知覚した物」と書いたのは、正確には『知覚したと本人が思っている物』の事で、思い込みかも知れません。

「実際周りにあるじゃん、錯覚なワケないよ」と言う方も居るかも知れませんが、『錯覚である訳が無い』と言える根拠は在りません。錯覚を錯覚と知るには、錯覚の外から眺める必要が有りますから。

外には「錯覚かも知れないけど、そんな確率は低いでしょ」と云う意見も在りそうです。而し、確率と謂うのは全体が明確になっていて初めて計算できる物である為、此所では確率は知り様が有りません。詰まり、「箱の中に、0 個以上の赤玉と 0 個以上の白玉とが、合計 1 個以上這入っている。1 個取り出した時に赤玉である確率は幾らか」と云う問いと同じです。赤玉が [錯覚でない事] を,白玉が [錯覚である事] を喩えていると考えて下さい。

序でに「飛行機にも墜落の可能性があるけど、確率が低いから乗るじゃないか」にも答えときますか。其れは然うですけど、[錯覚である確率] には高いも低いも無いし,乗る必要が無ければ飛行機に乗りはしないでしょう。此所で言う「必要」とは、[仕事で大阪に行かなきゃならない] とか、[ハワイに行きたい] とか、[移動時間を短縮したい] とか、或るいは [飛行機に乗りたい] をも含みます。錯覚でないと信ずる必要は有りませんよね。其れに依ってもっと広い視野を持てるとすれば。

錯覚である可能性に就いて、本の一例として、次の様に考えてみましょう。[自分の本体は実は、別の世界 A に存在する。世界 A では、「現実世界」と同様に人間が生活している。但し科学技術は比べ物にならない程発達していて、今自分は最近流行の、精巧に作られた仮想現実 (バーチャルリアリティー) ゲームの世界を楽しんでいる。ゲームオーバーになったら直ぐ世界 A に意識が復帰する様になっている]――とか。飽く迄一例です。

或るいは、もっと身近な例を挙げてみましょう。寝ている間に見る、夢。目覚めて振り返ってみれば余りに不条理で話が繋がらない夢でも、寝ている間は現実だと思って真剣に行動していたと云う事は有りませんか。私はしょっちゅうです。

感覚と謂うのは、此んなにも疑わしい物です。今あなたが読んでいると思っている画面上の此の文章も、錯覚かも知れません。

2 種類の架空世界

次。此所では、 [他人の手に由る作品の中に表現された架空世界] と [自分の妄想に拠る架空世界] とを分けて考えます。

先ず、[他人の作中の架空世界] を受け手が認識する時の話。勿論此の場合も、架空世界をそっくり其の儘取り込んで認識している筈は無くて、例えば小説なら文章の読解を介して,絵なら視覚の解釈を介して、作品を媒体として其の世界を取り込みます。其の上で、自己の思考の中に作り上げられるのが [其の作品に由来する世界の像]。

二つ目に [自分の妄想に拠る架空世界] ですが、此れは勿論其のまんま [世界の像] ですよね。

とすると

従って、現実世界も架空世界も、人間の認識の上では同じ [世界の像] です。同じだけの大きさの [真実である可能性] を持ちます。

別の表現をすれば、架空世界の内、知覚 (と思っている物) を根拠にしている物を特に「現実世界」と名付けただけとも言えます。

そしたら、「現実が主で架空が従」と言って現実世界だけに執着し,自分の思考の範囲を制限するのは、勿体無いと思いませんか。私に取っては妄想と現実とは同じだけ真実です。ひとつよりふたつ、ふたつよりよっつ、よっつよりたくさんの真実世界を (ネタ本)

…言う迄も無く、現実と架空とをゴッチャにして宜いと云う事ではありません。現実世界は現実世界,架空世界 X は架空世界 X,架空世界 Y は架空世界 Y であり、相互に干渉する事は在りません。個別に真実たり得るのみと云う事です。

5/15 日、11:27 子供向け作品との接し方の変化

‘一言’に載せようと思って書いたけど長過ぎる。

‘一言’に載せようと思って書いたから詰め詰めである。特に前者。


子供向けの作品を子供以外が受け取ると云う事。例えば、高校 3 年生がポケモンアニメを視聴している事。

英語教室をやってるウチの伯母が、小学生の授業で「What's your favo(u)rite TV program(me)?」と云うのをやったそうです。例としてポケモンを挙げ、さゆぬが観てる事を話したら『エー、私らが見るのはドラマだよォ、まだそんなの見てるのー?』とか。

以前から考えてるんですよ、成長過程の此の変化に就いて。此所では表現の単純化の為、アニメに限って話をしましょう。

アニメ作品に対する視聴者の立場は、時期に依って二つに分かれます。単純な事で、子供の間が主観,大人になっては客観です。詰まり、子供は『目の前に (俺の為の) 作品が在る』と云うだけの見方で作品に接しますが,大人は『大人たちが子供向けとして作ったアニメを、子供たちが受け取っている。制作者は子供のどの様な性質を理解した上で此の表現技法を選択し、云々。テレビと謂う媒体の特殊性が云々。テレビ局の利益が云々。著作権の所在が云々。』と、1 歩引いて眺められる様になります。制作者から視聴者に向けられた供給の矢印は、子供の頃は先端しか見えず,大人になると横から全貌が見えると云う事です。

子供の立場は、時期で更に二つに細かく分かれます。前半期が拒否反応を示さず受け容れる時期、即ち [目の前に在る作品に魅力を感ずる]。後半期が拒絶する時期、即ち [魅力を感じていた過去の自分や今の周囲から 1 歩脱し、背伸びして大人になろうとする]。

そして、幾らかの時期を歩んだ後、ふと後ろを振り返ってみると、いつの間にかあの矢印は背後のずっと遠くに向かっている。現在子供である人々に、昔と変わらず作品が供給されている。其の周囲を取り巻く物が自分の視界にすっかり這入る。

詰まり、『俺は其んなガキ向けのは観ねえよ、お前まだ観てんの?』と言う頃は、大人へ向かう成長の過渡期だと言えます。後もう一頑張りで大人だ、頑張れ!

……まあ、斯く言うさゆぬに移行期は無かったんですけどね。

5/15 日、11:27 異世界人を指す敬称

昨日〈アリルちゃん〉と呼ぶサイトを見掛けました。〈ルイ様〉と表現する方も沢山いらっしゃいます。〈リンきゅん〉等も存在する様です。私は何と無く〈レサレサ御嬢様〉と書いたりします。

敬称と謂う物は、話者 (筆者) が自分と対象との関係をどう捉えているか、を表現します。基本的には、対象を敬っていたら〈様〉〈殿〉,親しいなら〈君〉〈ちゃん〉,余り親しくないが嫌ってはいないなら〈さん〉〈氏〉、等の遣い分けが在ります。敬称を遣わないのは、対象を嫌っているか,対象を客観しようとしている場合です。

而し此れらの敬称は、現実世界での人間関係を前提に育った表現なので、本々は複数の世界間を跨いでは適用できません。即ち、異世界を観る立場は普通では客観にしかならない為、呼び捨てとなるのです。なので、適用したい場合は、何とかして同一の世界に話者 (自分) と対象とを存在させねばなりません。

では今人々はどの様にして此の問題を解決しているかと考えてみると、方法としては、対象の存在する架空世界に自分の仮の立場を置くか,自分の存在する現実世界に対象の仮の立場を置くかが有ると思います。実際には、現実世界の像と架空世界の像との必要部分だけを切り出して滑らかに連結して終う、と云う事が行われているらしく見えますが、話が複雑になるので此所では先ず上記の二つに四捨五入して考えます。

前者の、架空世界に自分の立場を設定する場合、無論其の世界観や,其の世界を語る作品の形態に依りますが、最も一般的な設定位置とは [作品の主人公の同伴] でしょう。詰まり主人公の敵は呼び捨てで呼びます。外には [一般住民] 辺りが多かりましょうか。[一般住民] の方が対象をの評価を自由に出来るので、好まれるかも知れません。悪役を対象として〈様〉付けするなら [悪の組織] に立場を置く必要が有ります。

逆に後者、現実世界に対象の立場を置くのは少し大変です。自分であれば、立場が変わっても其れに自分自身を合わせられますが、対象は勝手に変化して呉れません。あんまり対象自体を現実に合う様に弄くってしまうと、対象が別物になってしまいます。詰まり、対象が準拠している架空世界の世界観が現実世界に近い物でないと、対象を現実世界に仮定しても不安定になってしまうのです。そして、斯様な困難を越えて態々現実世界に呼んで来るのですから、嫌いな人物には行いません。必然的に、[友人] [恋人] 等の好意的な立場が設定される事になります。詰まり〈たん〉は主に此ちらに現れる敬称ですかね。此の方法は不安定なので特に、最初に述べた連結世界に大いに頼って対象に恋をするなり萌えるなりする様です。悪役の〈様〉付けも連結世界が楽かな。


やっぱり結構な時間を喰うなぁ。日本史と赤本やろ。

5/17 火、23:00 頃 ALT

書体のサイトで 4 時間過ごすのも良いけど、絵を描いたり小説書いたり勉強したりして 4 時間過ごすのも良いんじゃないかと思う。


今日の英語 (Writing) の時間に、ALT (Assistant Language Teacher) の Lindsay 先生がいらしました。カナダ人のおねーさんで、金の真っ直ぐな長髪,比較的丸顔です。普段我々に教えている鈴木先生と協同して教壇に立ちます。

ALT と行われる授業としては今回が今年度 2 回目だったのですが、教室の状態は前回と同様でした。具体的には、生徒の反応が鈍い。

而しまあ当然の事です。皆先ず聴き取れてないんですよ、先生が何言ってるか。結局皆は、Lindsay さんが英語で一通り話した後に、鈴木さんが其れを要約した話を聴いてるだけ。其の要約と謂うのも、折角 Lindsay さんが生来話者にしか分からない様な微妙な感覚を述べてるのを全て端折っちゃってるし。あんまり複雑な事を生徒に言うと混乱するから其れも仕方無いんですが…、面白い事話してるのになぁ。静かな教室に『みんな、英語嫌いなの?』と困り顔で笑う ALT に対し、其の言葉すら聴き取れず首を傾げる生徒たち。ALT の仕組みが有効に機能しているとは言えません。

処で、授業の中で「however fast we ran」(『僕らがどんなに速く走っても』) が話題となった時、『「however we ran fast」は遣えない』と云うのがさらっと流されてしまったので、授業の余剰時間を使った『何か質問有る?』の時に手を挙げて訊き直しました。答えはやはり「No.」、而し適切な解説が見付からないと頭を抱えて、今度見付かったら知らせる、と言ってた気がします。

そしてちょっと前後しますけど、授業の途中の、生徒らが英文を黒板に書いて先生たちが添削・解説する場面の話。最初問題番号として「(8)」と書かれていた部分を誤って消した Lindsay さんが書き直す時に、なぜか「8.」と書いたんです。別の番号も全て括弧数字なのに、態々。こいつは異文化交流の機会かも知れぬと、授業後に「I have one more question.」とて訊いてみました。どうやら、Lindsay さんは小学校の頃から「8.」を遣っていて、「8)」を遣う事も有るが、「(8)」は遣わない (never) のだそうです。へぇ、此れは少し驚きだ。

斯うやって私が下手なりに自信を持って英語で話せると云うのは、亡くなった母が、幼稚園の頃から私に英語を習わせて呉れていた御陰だなぁと感謝。何たって「No problem, I was NOVA.」(ネタ本) ですから。

5/17 火、23:00 頃 過去の日記に補足 (4/28 と 5/13)

なーんか大切な締めの部分でちょっと抜けてるんだなぁ。

先ず、4 月 28 日の日記の‘ねぶたはもう宜いから’の最後から 3 番目の段落。「胸を張れた物なのかと」を「胸を張れた文化なのかと」にします。折角「文化の程度が」に呼応させようとしたのに画竜点睛やん。

そして 5 月 13 日の‘架空世界の真実性’、‘とすると’の最後から 2 番目の段落の 1 文目を差し換え。「同じだけの [真実である可能性] を持っているのであれば、各個の世界に就いて真実とするかしないかの評価に差を持たせるのは、不自然ではありませんか。」。〈勿体無い〉と謂うより〈不自然〉。

5/18 水、19:54 REVOLUTION

学校から帰って見たら新聞に『任天堂が新型ゲーム機を発表した』とか書いてあるじゃないですか。E3 とか全然気にしてなかった。帰ったら直ぐにお勉強だと思ってたのに此のせいで復たかなり時間減っちゃった。任天堂サイトを少し巡って思った事を順不同で羅列。

5/22 日、21:59 自転車

金曜日は開校記念日で休みでした。3 連休良い天気。でも赤本とか進まない。

では、推敲しない文章、行ってみよう。


もう 1 週間以上前になるんですかね。何だか通学に使ってる自転車 (謂わゆるマウンテンバイク型) の前輪のブレーキがおかしくなりました。左右から車輪を挟み込んで止める構造なのですが、左側の部品が常に車輪に押し付けられてる様になって。

月曜日の頃はまだ、手で引き剝がせば其の状態を保持して呉れる程度だったので、其の儘乗ってました。が、日を追ってひどくなって来た為、おとといの夕方 6 時頃、自転車を修理して呉れる近所のおじさんの所へ行きました。すると『スプリングが無くなってしまっている』と云う事で、あの方は半分趣味でやってて部品は調達できないので、改善しない儘帰りました。

で、きのう、祖母が別の自転車屋さんに電話掛けて呉れて、其の自転車屋は朝の内に直ぐ軽トラックで自転車を預かりに来ました。直って夕方に戻って来ました。一部だけ部品を取り替え、2000 円でした。

其の趣味の修理屋さんで診て貰ってる時、近所住まいらしいお母ちゃんが小学生の男の子 3 人連れて来ました。聞いてると、マウンテンバイクの前籠を大きいのに替えて欲しいとの事。子供の一人がサッカークラブに這入ってて、其の鞄がデカいんだそうです。おじさんは最初『マウンテンバイクに合う高さの籠は無いんじゃないかな』と言ってましたが、一度奥に引っ込んで合いそうなのを持って来ました。私は其の時に『部品が無い』と言われたので、実際其の籠が装着される様子は見てないのですが。あの籠は便利そうだなぁ。

5/22 日、21:59 作者に取って作品は…

十日の続き。何だ、大事な点を忘れてるじゃないか。商品としての作品なら、[売り上げを伸ばす事] も考えなきゃ。

今あんまり時間無いので、深く考えるのはしときます。


然う然う、土曜日の昼は祖母と家の前の公園の桜の下で食べました。カレーパンとか。黴びそうなパイナップルとか。晴れて風も然程無く、屋外は快くありました。

カレーパンって何であんな形なんですか?

5/23 月、+0:19 「優しい子だったのに」と

麻生の“プラージュ”なる床屋で髪切りました。相当伸びてたのでさっぱり。


等、新聞で好まれる表現。定型化しちゃってて好かない。大抵は次のいずれかの構文で出現する様です。

事故を目撃した地元の主婦 (38) は「犬耳も好きですけど」と声を震わせた。

しかし鈴木氏は断言する。「勇気のトライフォースの所持者を見つけられなければ、ハイラルに未来はありません」

5/23 月、+0:19 「どんな傷でさえ」

「どんな傷でさえ、そっとなぞって癒やしてくれる。」。アニメ版“ミルモでポン”の“ごおるでん”だったか“わんだほう”だったかの終わりの主題曲の歌詞です。時折聞く事が有りました。

一見問題無そうなんですが、変です。〈どんな〉と〈さえ〉とは一緒に遣ったら意味が通らなくなります。

〈さえ〉は、一般化して言えば、「一つの原因・結果の関係に於いて、[結果 A が予想されにくい或る原因] を例示し,更に其の場合でも結果 A が得られる事を述べ,[結果 A が予想され易い原因] の場合にやはり結果 A が得られると云う事を暗に示す」と云う働きをします。ゴチャゴチャなので例を挙げると、

出来杉君さえ 80 点の試験

。上の一般的な表現に乗せて話せば、[受験者が誰々だ] (原因) と [得点が幾らだ] (結果) との関係に於いて、 [受験者が出来杉である] (結果 A が予想されにくい或る原因) を例示し,更に其の場合でも [得点が低い] (結果 A) が得られる事を述べ,[受験者がのび太である] (結果 A が予想され易い原因) の場合にやはり[得点が低い] (結果 A) が得られる事を暗に示します。ううん、やはり解り辛い。要するに、「出来杉さえ 80 点なんだから、のび太も得点が低い」と言ってますよね。〈さえ〉には、話し手と聞き手とで捉え方を共有できる一例が必要なのです。

だから、「どんな」等と言って例を挙げないと意味を成さない。試験の例で言えば、「誰でさえ 80 点の試験」と言われても、難しい試験なのか簡単なのか判りませんよね。「のび太さえ 80 点の試験」と言えば、逆に『相当簡単だった』と云う意味になっちゃいますもの。

此の歌詞を修正するならば、〈ある〉の仮定形を用た「どんな傷であれ」か,又は特定の例を挙げて「深い傷でさえ」か辺りになりますか。[深い傷である] と云う原因は、[癒やしてくれる] と云う結果が予想されにくいので、[浅い傷である] と云う原因の際にもやはり [癒やしてくれる] と云う結果が得られると云う事を暗に示せます。

5/23 月、+0:19 「ママ思い出してついつい」

「悪い事しようとするけど、ママ思い出してついつい良い事しちゃう、そんなゾロリ先生が大好きだよ。」

今度はアニメ版“かいけつゾロリ”の一時期の終わりの主題歌から。いずれも公式サイトへのリンクを省略。此所迄書くのに 1 時間以上掛かってる。

本編でゾロリ先生は、亡くなったママに対して『イタズラの王者になる』と誓ってる訳で、「イタズラは悪い事ではない」と主張しない限りは此の歌詞は作品の本編にそぐいません。


あーさっさと寝よう。